グランドキャニオンの歴史


渓谷の誕生

6500万年前、長期の火山活動、堆積および浸食を受けてGrand Canyon地域は圧縮され、それによりコロラド高原が隆起してColorado Riverが生まれました。コロラド高原の隆起が続くにつれて、岩屑が堆積した川の勢いが増し、Grand Canyonの亀裂が浸食されて深まることになりました。Colorado Riverは、コロラド州のロッキー山脈にある水源からカリフォルニア湾に注ぐ河口まで1,450マイルの長さを誇り、アメリカの西部地域にある複数の州を支えています。また、アリゾナ州北部に広がる、全長277マイルのGrand Canyonに沿って流れています。

インディアンの祖先

Colorado RiverとGrand Canyonのある地域は、紀元2000 ~ 1000年頃グランドキャニオン付近に最初に現れた狩猟採集文化も含め、多数の文化の拠点となってきました。石製の槍先や小枝を割いた小さな動物像など、この文化の足跡が見つかっています。1500年後の紀元500年、別の狩猟採集集団である、Anasaziとも呼ばれる古代プエブロ人が、この地域に移住しました。この勤勉な一団は、作物を作って石造建築の村を建設し、芸術的な工芸品を作り、その地域の2,000を超える場所を耕作しました。局地的な干ばつにより、最終的にプエブロの人々はGrand Canyonの東半分に移住せざるを得ませんでした。

時間とともに、コホニナ族 (紀元700 ~ 1150年) 、セバット族 (紀元1300年) 、シナグア族、ディネ族 (紀元1600年) およびパイユート族がグランドキャニオン地域のさまざまな部分に移り住み、コミュニティを確立して狩猟と農業を通じて資源を活用しました。ワラパイ族、ハバスーパイ族、ナバホ族、ホピ族およびパイユート族などの部族を含む、これら初期文化のインディアンの子孫は、現在もグランドキャニオン地域に居住しています。

陸路からの訪問

フランシスコ・バスケス・デ・コロナドの指揮下、1540年にスペイン人が金や伝説のシボラの七都市を探してGrand Canyonを探検しました。Colorado Riverまでの道を3分の1下った後で、彼らは調査を断念してこの地域を去りました。1820年代後半、アメリカの山男たちがこの地域を知ることになりますが、この地域の文書記録や説明として残されたものはわずかでした。1850年代には、モルモン教のリーダーであるブリガム・ヤングが、Grand Canyon地域の横断地点を見つけるためにジェイコブ・ハンブリンを送り込みました。この探検中、ハンブリンはキャニオン近くに2つしかない横断地点であるリーズ・フェリーとピアース・フェリーの両方を発見しました。リーズ・フェリーは1871年にフェリー運航を開始したジョン・D・リーの名前から取られ、ピアース・フェリーは1876年以降にフェリーを運航したハリソン・ピアースにちなんで名付けられました。

1857年、ジョセフ・アイブス中尉は米国陸軍省により、カリフォルニア湾からコロラド川沿いを上流に向かって旅することを許可されました。彼の蒸気船ので旅は、現在のラスベガスから約350マイル (560 km) の、ブラック・キャニオン内の20マイル (32 km) の地点で船が岩に衝突するまで約30マイル (48 km) 続きました。アイブスとその同行者は蒸気船を残し、東に向かってグランドキャニオンの深部へ歩き、起伏の多い土地を横断してダイヤモンド・クリークまで辿り着きました。その後、アイブスとその同行者は、サウス・リム沿いを東に向かって陸路でコロラド川の支流と主流の合流点まで進みました。

船路からの訪問

1869年、ジョン・ウェスリー・パウエル少佐は、有名なボートによるColorado Riverの調査を実施し、Grand Canyonに関する科学情報を収集しました。シャイローの戦いで右腕を失った南北戦争の退役軍人であり、地質学の教授でもあるパウエルが、探検中に「Grand Canyon」という名前をつけました。一部スミソニアン大学から資金提供を受けたこの調査は、大成功を収めたと評価されました。残念ながら、パウエルのチームのメンバー3人は、チームの他のメンバーを残してセパレーション・ラピッド近くでGrand Canyonから抜け出たところで、Paiute族によって殺害されたと考えられています。パウエル少佐と残りのメンバーは探検を続け、翌日グランド・ウォッシュ近くからキャニオンを抜け出しました。パウエル少佐はその後1881年から1894年まで米国地質調査の第2ディレクターを務め、そこで国立水文調査プログラムを開始しました。これは後に開拓というパウエルの展望の証となる、Hoover Dam、Glen Canyonダム、および他のColorado Riverのダムの建設に繋がりました。Glen Canyonダムに隣接する広大なレクリエーション貯水池であるLake Powellは、ジョン・W・パウエルに敬意を表して名付けられました。

1889年には、フランク・ブラウンとロバート・スタントンによりコロラド川の別の調査が行われました。Colorado Canyon and Pacific Railroad Companyの資金提供を受けたこの調査は、カリフォルニアとコロラド間を結ぶ鉄道をコロラド川沿いに建設する可能性について調べることが目的でした。この旅の最初の行程では、ブラウンとその他2人がグランドキャニオンの急流で溺死するという惨事が起きました。スタントンは、残りのメンバーに救命胴衣を与え、頑丈なボートを用意して探検を続行し、1年後、ついにカリフォルニア湾に辿り着きました。言うまでもなく、この旅によってコロラドを通って鉄道を建設することの難しさが裏付けられました。1869年および1889年の探検は、その後に続くその他多くの探検に影響を与え、1923年には米国地質調査所が、グランドキャニオンの正確な地形図を作成するという初の包括的な研究を実施しました。

開拓

1870年代以降、鉱山労働者、貿易業者、およびトレイルの建設業者がグランドキャニオンの一部の周辺に住み探査を行いました。ラバキャニオンとHavasu Fallsの近くに銅山と銀山が設立され、リーズフェリーの近くで金の流水事業が実施されました。観光客、狩猟者および検査員を迎える事業が確立されました。Grand Canyonのガイドであるデビット・ルストにちなんで名付けられたルストズ・キャンプが1903年に設立されました。その後ファントム・ランチとして知られるようになり、現在でも営業しています。1916年にはGrand Canyonを訪れる人々の滞在用に、グランドキャニオン・パリセーズに向かう途中のLittle Colorado RiverとColorado River本流の合流点に、キャメロン・トレーディング・ポストが設立されました。

Eighty-six years later, the Trading Post has expanded from its original structure, and hosts a Hotel and Navajo showroom for arts and crafts, attesting to the constant stream of visitors that have traveled to the Grand Canyon on a faithful basis. The addition of railroad service to the Canyon in 1903 and the invention of the automobile greatly facilitated the increase of tourism to this natural wonder of the world.

米国政府の保護

グランドキャニオンが徐々に人気を得るにつれて、米国連邦政府はグランドキャニオンを悪影響から保護するようになりました。ベンジャミン・ハリソン大統領は1893年にグランドキャニオンを国有保安林に指定し、セオドア・ルーズベルト大統領は1906年に国立禁猟区として、1908年に国定公園として確立しました。ウッドロー・ウィルソン大統領は1919年2月26日にグランドキャニオンを国立公園に指定し、1975年にはマーブル・キャニオン国定公園、グランドキャニオン国立公園、北カイバブ国有林およびグランドキャニオン国定公園の合併により、1,900平方マイル (4,920 平方km) を超える範囲に広がる現在の公園が生まれました。